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主な登場人物

上杉謙信 1530-1578

 虎千代・景虎・輝虎・政虎・不識庵・越後の虎・越後の龍・毘沙門天の化身・北方の守護神など多くの名を持つ。春日山城で生まれ、越後統一・関東進出・上洛を果たし、上昇志向の生涯ののちに春日山城で急死。

 酒好きで知られ、辞世の句は「四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒」。もしも謙信が急死しなかったら、越後は日本の首都だったかもしれない…など、「たられば」界の雄。

 文武両道に秀でた人物だが、独身主義者だったため、実は女性だとか男色だのと言われ放題。ドラマ・映画では石坂浩二・柴田恭兵・辰巳琢朗・阿部寛などの名優が演じているが、NHK大河ドラマでGACKTが演じた長髪美形謙信像が広く知られるようになり、イメージが分裂気味。平成27年からは女性説を基にした漫画が某青年誌に連載され、「お虎」として活躍している。

    

上杉景勝 1556-1623

 越後春日山城主・会津鶴ケ岡城主・出羽米沢城主。

 坂戸城(現魚沼市)で生まれ、叔父謙信の養子となった。御館の乱以後謙信の後継として活躍。豊臣家五大老の一人で秀吉から会津130万石に任ぜられたが、関ケ原の戦い当時は石田三成側と親交があったため、会津征伐を経て徳川家康によって米沢30万石に減移封された。

非常に苦労し頑張った人なのに、無口なせいか家臣に人気をさらわれた感がある気の毒な人でもある。

 「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の妻 富子は景勝の孫に当たり、その子綱憲は伯父である上杉綱勝の養子になり、四代目米沢藩主となる。「歴史は繰り返す」を地で行く展開となった。

上杉景虎 1554-1579

 北条三郎・上杉三郎景虎とも云う。相模の北条氏康の七男として生まれ、寺に入れられたり武田や上杉の人質として転々とした後に謙信の養子になる。景勝の妹と結婚し子供にも恵まれ、越相同盟決裂後も越後に留まるが、謙信の急死により景勝との跡目争い(御館の乱)が勃発、敗走の末鮫ガ尾城(妙高市)で自刃。悲劇の武将として知られる。史料が少なく、肖像画が見つからない。

 「東国一の美少年」と言われた美男子で(出典不明)、小説「炎の蜃気楼」の主人公として1990年代に直江信綱とともに絶大な人気を博した。

  ※直江信綱:直江兼続の妻お船の前夫。御館の乱の後、

  春日山城内で殺害されたため、樋口兼続が直江家の婿養子

になった。

直江兼続 1560-1619

 幼名与六、後に樋口兼続。上杉家の重臣直江家の養子に入り直江兼続となる。大河ドラマでは「わしはこんなところに来とうはなかった!」のセリフが有名。トレードマークは愛の兜。

 幼少期より上杉景勝に仕え、御館の乱、会津征伐、直江状など数々の苦難を乗り越え、無口な主君を支えて米沢上杉家の基盤整備に功績を遺す。あまりに有能なので豊臣秀吉がヘッドハンティングを試みたがきっぱりと断ったとか。

 前田慶次とも親交があったらしい。現代では漫画・パチンコ・ゲームなどに幅広く進出しており、元の真面目な武将(というより行政官)の面影は薄れつつある。  

春日山城中腹に立つ、法師頭巾姿の像。昭和44年、大河ドラマ「天と地と」の放映時に建立。以後オーソドックスな謙信像として知られる。高さ約3メートル。作者は滝川毘堂(上越市出身)。

春日山旅館蔵。

先代が滝川毘堂氏と親交があり、春日山城の銅像建設に尽力した縁で毘堂氏から贈られたもの。

春日小学校校庭の謙信公像。台座には「勇知 毘堂作」とある。

他の像にくらべ小さいが、記念撮影には好適。ただし、小学校の敷地内なので立ち入りには要注意。

銅像

埋蔵文化財センター前の騎馬像。1990年にリージョンプラザ上越に設置されたものを2010に移設。

作者は南部祥雲

北陸新幹線上越妙高駅東口に2015年に設置されたもの。40歳代の、川中島合戦などに活躍した頃(輝虎~政虎)の姿を史実に基づいて表現した騎馬像。作者は峯田敏郎氏。

左の銅像の木彫原型。上越文化会館エントランスに展示。春日山に近いのでぜひお寄りください。

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